奥貫友山は久下戸に生まれ、小平太、後に五平太と称して、字を正卿、号を友山といい、長い間名主をつとめて多くの人からの信頼がありました。
寛保2年(1742/江戸時代)8月、関東で大風雨があり、荒川をはじめ数十の河川が氾濫、大洪水になりました。このとき友山の救いをうけた被災者の数は、48ヵ村、10万6千人といわれ、米25俵、雑穀266石などをはじめとする、合計162両ほどの救援物資を私財で投じました。この功績を賞して、川越城主「秋元涼朝」は、狩野周信筆の鷹絵をわたし厚くたたえました。
また、幕末の儒官「成島錦江」に学び、青木昆陽や中村蘭山などとの交遊があり、歌集「老のすさみ」などを残しています。
天明7年(1787/江戸時代)、81歳で亡くなりました。
寛保2年(1742/江戸時代)8月、関東で大風雨があり、荒川をはじめ数十の河川が氾濫、大洪水になりました。このとき友山の救いをうけた被災者の数は、48ヵ村、10万6千人といわれ、米25俵、雑穀266石などをはじめとする、合計162両ほどの救援物資を私財で投じました。この功績を賞して、川越城主「秋元涼朝」は、狩野周信筆の鷹絵をわたし厚くたたえました。
また、幕末の儒官「成島錦江」に学び、青木昆陽や中村蘭山などとの交遊があり、歌集「老のすさみ」などを残しています。
天明7年(1787/江戸時代)、81歳で亡くなりました。
参考:川越の文化財(川越市教育委員会)
名称 | 奥貫友山墓 |
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指定 | 県指定 旧跡 |
員数 | 1基 |
所在地 | 埼玉県川越市久下戸 |
所有者 | 個人所有 |
指定日 | 昭36.9.1 |
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なし