中島孝昌は、幼名を徳三郎と言い、後に徳右衛門と改め、家業を継ぐと共に五代目絹屋与兵衛を名乗り、川越鍛冶町の名主役を務めました。
とても学問を好む人で海保青陵や伊藤恒庵について学び、字を済美、諱名(いみな)を孝昌と唱えました。和歌、俳諧をよくし桜斉基馨(きけい)、酔春亭、桜曙園などと号し、また狂歌を鹿都部真顔に師事し、桜戸の茂躬(しげみ)、栗下庵などといいました。
さらに川越の地誌としてもっとも優れた「三芳野名勝図絵」三巻を著わし、後世の人に役に立つすものとなりました。
文化5年(1808)正月10月、43歳で亡くなりました。広済寺墓所の中央にある墓石には「宗其馨居士」とあり、「消えてこそまことなりけり雪仏」という辞世の句が刻まれています。
とても学問を好む人で海保青陵や伊藤恒庵について学び、字を済美、諱名(いみな)を孝昌と唱えました。和歌、俳諧をよくし桜斉基馨(きけい)、酔春亭、桜曙園などと号し、また狂歌を鹿都部真顔に師事し、桜戸の茂躬(しげみ)、栗下庵などといいました。
さらに川越の地誌としてもっとも優れた「三芳野名勝図絵」三巻を著わし、後世の人に役に立つすものとなりました。
文化5年(1808)正月10月、43歳で亡くなりました。広済寺墓所の中央にある墓石には「宗其馨居士」とあり、「消えてこそまことなりけり雪仏」という辞世の句が刻まれています。
参考:川越の文化財(川越市教育委員会)
名称 | 中島孝昌墓 |
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指定 | 県指定 旧跡 |
員数 | 1基 |
所在地 | 埼玉県川越市喜多町5-1 広済寺 |
所有者 | 広済寺 |
指定日 | 昭36.9.1 |